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前胸腺刺激ホルモン(PTTH)(3)

 微量物質を精製して構造を決めるためには、大量の材料から精製することが必要である。当たり前だがこれが難しい。PTTHの最初の論文で「カイコPTTHを16段階の精製過程を経て、カイコ蛾頭部50万頭から約5マイクログラムを単離し、N末端から13残基のアミノ酸配列を明らかにしたこと」を発表したが、それを達成するためには数倍の材料を使って様々な精製法を検討し、さらに、その段階で得られた最終精製物の配列分析を何度も行っているのである。50万頭の蛾頭部から一発勝負でうまく単離できたわけでも、構造が決まったわけでもない。この辺りのことは論文から知ることができない。一発勝負の研究成果だと思っている人も多いと思う。

 精製のための材料がカイコ蛾頭部50万頭というと驚くかもしれないが、私はこれまでに2,000万頭以上のカイコ蛾頭部を実験に使ってきた。どうやってそれを集めたのか、学会の講演や講義などで紹介したことはあるが、論文には書かれていない。

 戦後の日本は養蚕業が盛んで、養蚕農家にカイコの卵を売る蚕種業社が隆盛を極めていた。桑の葉が芽吹いたばかりの早春に飼育した原種といわれる系統の蛹を蚕種業社が買いつける。この蛹のオスとメスを鑑別して、羽化後に別の系統のメスやオスと交尾させ、ハイブリッド(雑種強勢)の卵を産ませて、農家に販売するのである。メスは卵を産ませるために大事に保護されるが、オスは交尾後廃棄される(穴を掘って埋める)のである。そのオス蛾をもらい受けて、頭部を集めてPTTHの抽出材料にした。私が研究に加わった頃には養蚕業は既に斜陽産業になっていたが、それでも昭和の時代は産業として成り立っていたので、年間数百万匹のオス蛾を確保することができた。今では無理である。
 毎年6月に群馬県是蚕種協同組合(前橋)へ、オス蛾を集めに研究室の関係者が数日交代で出かけていた。修士課程1年生の時に始めて参加したが、鱗粉が舞う中、なかなかの重労働であった(図1 参照、筆者の後輩)。オス蛾を約3千頭ずつビニール袋に入れて密封し、アイスクリームケースで一旦凍らせる。そのビニール袋数10個を段ボールに詰めて、食品冷凍庫屋さんの倉庫に運び込む。秋以降の農閑期に地元の農家の主婦の人達をアルバイトに雇って、成虫から頭部だけを切り取るのである(図2、図3 参照)。凍っていることもあり簡単に頭を切り取ることができ、手慣れるとひとりで1日5千匹の頭部を集めることができるようになる。成虫全体は750mg程度で、頭部が7.5mgくらいなので、この頭切りの作業で100倍の精製が行われたことになる。
 こうして、年間数百万頭のカイコオス蛾頭部を集めたのである。オス蛾は無償だが、頭切りに必要な人件費、ドライアイスなどの消耗品、輸送費を合わせるとオス蛾頭部1個は2円の計算になる。50万頭の蛾頭部は100万円なのである。したがって、私はこれまでに材料費だけで4,000万円以上を使ったことになる。

 このようにしてPTTH精製のための大量の抽出材料を確保したのである。

図1 カイコ蛾集め
図1 カイコ蛾集め(群馬県是蚕種協同組合にて 筆者の後輩が作業中)
図2 アルバイトを雇っての蛾頭部切り
図2 農家の主婦の人達をアルバイトに雇っての蛾頭部集め
図3 蛾頭部切りの様子
図3 蛾頭部切りの様子(ドライアイスの入ったアイスクリームカップに片刃カミソリの刃でない方で頭部を切り落とす)
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記事の執筆者と略歴

この記事の執筆者

片岡宏誌のホームページ 片岡 宏誌 農学博士
                                               
1981年 東京大学 農学部 農芸化学科 卒業
1983年東京大学 大学院農学系研究科 農芸化学専攻 修士課程 修了
1986年東京大学 大学院農学系研究科 農芸化学専攻 博士課程 修了(農学博士)
1986年 Sandoz Crop Protection 社 Zoecon Research Institute(アメリカ・カリフォルニア州)ポストドクトラルフェロー
1988年 日本学術振興会 特別研究員(東京大学)
1988年 東京大学 農学部 助手
1994年 東京大学 農学部 助教授
1999年 東京大学 大学院新領域創成科学研究科 教授
2024年 東京大学 定年退職
2024年 東京大学 名誉教授

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