研究者としてそろそろ終わりを迎えようとしている。卒論研究の開始が1980年4月だったので、44年間の研究生活ということになる。ただ、この5年ほどは学生を受け入れていなかった(希望者がいなかった)ので、実質は40年ほどかもしれない。このところ、後任の永田君の学生のゼミに参加しているが、言いたいことが言えてとても楽しい。「嫌がらせのような質問だけど」とか「嫌がらせです」と堂々と口に出せるのがうれしい。学生を直接指導していた頃にはできなかった。
私は40才で教授になったが、当時定年が60才で、20年間も教授を務めるのかと思うと肩の荷が重く、息苦しさを感じていた。さらに、ちょうど半分を過ぎた頃、定年が5年延長されて再び辛くなった。60才で早期退職しようとも思ったが、妻子を養う必要があり65才まで続けてしまった。東大教授という身分は世間体が良く、その肩書きを時々利用することもあるのだが、その身分を失うことにいささかも未練がない。むしろ清々とした気分なのだ。気負っていたのかもしれない。
研究者として充実していたのはいつか、と聞かれることがある。「アメリカに留学していたポスドク(博士研究員)時代から助手の時代(1980年代後半から90年代前半)」と自信をもって答えられる。体力もあり、実験技術や知力(ひらめきや洞察力)が充実していた。「その当時、世界で5本の指に入る、ペプチド精製と構造決定技術をもっていた」と自負している。当時は自分の実力を評価できなかったが、10年ほど経った(2000年)頃にそう思えるようになった。「微量ペプチドの精製技術はナンバーワンだったかもしれない」とさえ思っている(現在のことではない)。
ペプチドの構造(アミノ酸配列)は遺伝子(DNA)の配列に由来する。したがって、遺伝子がクローニングされるとペプチドの構造決定が正しかったかどうか検証されることになる。そのため、DNAクローニング技術が飛躍的に進んだ1995年頃、ペプチドやタンパク質のアミノ酸配列を訂正する論文が多数見受けられた。私はアミノ酸配列を間違えた論文発表をひとつもしていなかった。「前胸腺刺激ホルモン(2)」の仙石氏を見習い、シークエンサーをとことん使いこなしていたからだと思う。最近の機器は自動的にいろいろ判定するので、「機器が間違った結果を出した」と言い訳する学生や研究者がいるが、機器を使いこなせていないのである。性能の良い機器を使っても、操作や解析がいい加減だと間違った情報を得ることになるのだ。
少し前に、LC-MS/MSのオペレーターになろうと思ったことがあったが、最近の機器はコンピュータがほぼ全て制御・解析するのでオペレーターが能力を生かせないことが分かり、面白くなくてやめた。細かい作業も老眼のためできなくなっていた。今思うと、使いこなすまで辛抱できなかったのだろう。やはり、研究者の世界から足を洗えということだ。