1月も終わりに近づき、教授の任期も残り2ヶ月になった。1月は最後の博士論文および修士論文の学位審査を楽しんだ。審査を受ける学生が緊張するのは当然であるが、審査する教員も緊張するのだ。学位審査で感じていることを少し書き留めておこうと思う。
指導している学生が無事学位を取得できるかどうか、ともかく気になる。年末から学位論文の添削指導を行い、年明けには学位審査会の発表練習をして、審査員の先生に少しでも学生が行った研究を理解してもらおうとエネルギーを注ぐ。学生には「スライドが分かりにくいので作り直せ」「実験データや文献を確認しておけ」と次から次へと課題を与え、彼らは睡眠時間を削って準備することになる。ところが、次の発表練習では新たな注文をし、「前のスライドの方が良かった」など言ってしまう。「なら、最初から正解を教えて欲しい」と学生は思いがちであるが、先生も全体の構成を考えながら、どうしたら分かりやすくなるか考えているのである。決して嫌がらせをしているのではない。発表のやり方には(研究にも)絶対的な正解がないのだ。
自分の学生の論文添削や発表練習が終わると、次は副査に指名された、別の研究室の学生の学位論文を読んで、試問を考えることになる。専門分野が近ければ短時間で論文を読むことも適切な質問を考えることもできるが、分野が離れていると「論文中の専門用語が分からず」「使った手法も理解できず」、コンピュータ検索や文献調査なども行いながら読むことになる。「こんな質問で良いのだろうか」と思うこともよくある。他の教員に自分の能力を見透かされているような気分にもなる。
一番良い質問は、副査にもなっておらず、ボーと発表を聞いていて思いついた質問だと思っている。このような質問は、研究の本質を突いたものであることが多い。
いつの頃からか、質問をうまくかわせば評価されると思っている学生が増えてきた。「???については今後やる予定です」と残りの学生生活でやる気もないのに、答える学生がいる。調べてもいないのに、堂々と「???ということです」と平気で「でまかせ」を答える学生もいる。言葉だけで適当にごまかそうとすると、教員から二の矢三の矢が飛んでくることになる。気をつけた方が良い。
今年審査した博士論文はしっかり書かれていた。質疑応答も的確であり、東大教授として最後の博士論文審査会を楽しんだ。彼が将来活躍してくれることを期待している。