アメリカからの帰国を決心した経緯(裏話)は書いたが、留学することになった経緯も紹介しておこうと思う。ただ、40年ほど前の話であり伝聞もあるので、一部脚色されているかもしれないが、御容赦願いたい。
1985年4月 博士課程3年生になり、一年後には卒業するので、就職活動をそろそろ始めようかと指導教官の鈴木昭憲先生と面談した。私が岡山出身ということで、「関西の製薬会社の研究所はどうか?」という話になった。「ゴールデンウィーク明けに数社回れるように関係者へ連絡しておく」と言われた。修士修了時にも、研究室の先輩の紹介で関西のある製薬会社の(重役)面接を受けたが、PTTH研究に未練があり最終的にお断りした。当時の大学院生の就職は、指導教官や研究室の先輩の紹介で決まるのが普通であった。
その少し前から、鈴木昭憲先生はZoecon社から講演の招待を受けていたが、多忙を理由に断っていたようである。ところが、面談の少し前に、Zoecon社の顧問であるコロンビア大学の中西香爾先生(植物からエクジステロイドを発見したなど天然物化学の分野では著名で、鈴木先生にとって研究分野の先輩であり、Schooley氏のポスドク時のボスでもあった)から「大学が比較的暇なゴールデンウィークにZoeconの招待を受けてもらえないか」と国際電話があったそうである。鈴木先生は「(当時助手の)長澤さんと一緒なら招待を受ける」と返事をしたそうで、その後、トントン拍子に話が進み、その年のゴールデンウィークに二人でZoecon社を訪問して講演した。講演後は近郊のモントレーやカーメル、サンフランシスコの観光など日々接待されたそうである。長澤さんは私の実験指導者で、アメリカから鈴木先生より先に帰国して「Zoeconは、昆虫ペプチドホルモンの精製・構造決定を進めたいと強い希望があり、招待の本当の目的は研究室出身者の人買いだったので、鈴木先生が帰国後に話があると思うよ」と言われた。その話を聞きしばし考えたが、鈴木先生から留学の話があったら即決で受けようと思った。英語は中学からずっと苦手で全く自信はないが、アメリカでの研究や生活にちょっと魅力を感じた。数日後に鈴木先生が帰国され、教授室に呼ばれ「アメリカに留学する気はないか?」と問われた。「はい、行きたいです」と即答した。これで、アメリカ(Zoecon)留学が決まった。両親に電話で報告したら、関西に帰って来ると思っていたので、絶句していた。
後先考えないで挑戦するのは若者の特権である。ぶっつけ本番の留学だったが、Zoeconの近くに大学時代の同級生、新谷君が数年前から留学していることが分かり、安心して渡米した。彼は、折に触れアメリカ生活になじむようにいろいろ世話をしてくれた。渡米当時ほぼ毎日、近所の情報やアメリカのシステムについて電話で説明してくれた。そのお陰で難解な英語での手続きもつつがなくこなせたし、愚痴もいっぱい聞いてもらった。私が比較的短期間でアメリカ生活になじめたのも、充実した留学生活を送れたのも彼のお陰であり、今でも感謝の気持ちでいっぱいである。彼は、約一年半後にアメリカから帰国した。
向こう見ずで飛び込んだ留学は、その後の私の挑戦的な人生を決めたように思う。もし躊躇して製薬会社に就職していたら、無難で保守的な人生を歩んでいたように思う。
ただ、アメリカ到着の夜に時差ぼけで眠れず「私は誰? ここは何処?」と不安になったことは書き留めておきたい。