違う研究者が同じような研究成果を、ほぼ同じ時期に論文(もしくは学会)発表することが科学の世界ではよくある。不思議なことに、同じ成果をあげた研究者が突然?現れるのである。魅力的な研究テーマには、敢えて競争に加わる研究者も多く、その場合は必然的に発表時期が重なることが多いが。
研究者の社会では最初に発見・発表した人の功績「先進性(priority)」が高く評価されるのだが、私がアメリカで経験した 羽化ホルモン (EH)の構造決定をめぐる熾烈なpriority競争を少しだけ紹介したい。
EHは、昆虫の最終脱皮である成虫への羽化行動を誘起するホルモンである。例えば、セミは早朝に、ある蛾は夕方に羽化するのは、EHが血液中へ放出されるタイミングが一日のうちいつか決まっているためである。EHは62残基のアミノ酸からなるペプチドである。
通常、論文のpriorityは、発表年によって決まるが、時には数日の違いであることがある。発表論文には、受付された「受付(received)」年月日が記載される。査読者により審査され、論文内容が科学的に矛盾や問題がなく、その雑誌で公表することが適切であると判断された時に「受理(accepted)」(古い論文には受理の日付がないこともあり、雑誌発行日が意味をもつ場合もある)となる。なお、受理日以降は「印刷中(in press)」として論文が公表されたと認められる。
EHの構造決定は3つのグループが争っていて、それぞれの論文が別の雑誌に投稿された。受付日が、東大グループが1987年5月14日、ワシントン大学のTrumanグループが5月15日、私たちのグループが6月12日であった。それぞれの雑誌に論文が印刷・公表(発行)されたのは、いずれも1987年8月であった。東大グループはカイコEHの構造決定を、Trumanと私たちのグループはタバコスズメガEHの精製と構造決定を発表した。
東大グループは、昆虫種間のEHの構造の違いという観点でも論文の独自性を主張できて、priolityだけではない評価が期待できるが、Trumanグループと私たちのグループでは同じタバコスズメガのEHなので、priolityが特に重要視される。priolity以外の観点はないかというと、実験内容や実験手法がいかに説得力あるかということも重要である。私たちは、投稿が他の2つのグループに遅れを取っているとの情報があったので、「いかに説得力のある実験内容を加えるか」一週間考えに考えて最後の実験を行い、その結果を加えて論文を投稿した。私たちの論文の受付日が一番遅かったが、それでもこの論文が無視されなかったのは、EHが62残基のペプチドであることを他のグループより明確に示したからだと思っている。なお、当然だが、62残基のアミノ酸配列はTrumanグループと完全に一致していた。Trumanグループの実験技術を賞賛するとともに、自分たちの技術レベルも確認できて安堵するとともに自信をもった。
このように胃をキリキリと痛めながら短期決戦の実験をしたことはこれ以降なく、私には貴重な経験であった。研究成果のpriolityを確保するために、きちんとした実験をやめて公表することは慎むべきだが、やはりpriolityを確保しないとこの世界では評価されず、研究費の確保も難しくなるのも事実である。近年、特に強く感じるようになった。