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研究試薬を信じられなくなる怖さ

 長い間研究を行っていると、信じられないことに遭遇する。約10年前に、実験がうまく進まず、原因をいろいろと検討した結果、市販の実験試薬に問題があることが分かった。この事実は公表されていないので、昆虫研究の関係者には大切な情報かもしれない。

 まずは、一般の人にも少し理解してもらえるように、実験に使った試薬(エクジソン)やカイコ変異体の説明から始める。
 昆虫の脱皮や変態は脱皮ホルモンによって引き起こされる。脱皮ホルモンは前胸腺で合成され、血液中に分泌されるが、注射によって人為的に与えても脱皮を起こすことができるし、餌に高濃度の脱皮ホルモンを混ぜて与えても脱皮を誘導することができる。脱皮ホルモンはステロイドホルモンで、前胸腺からエクジソンという物質として分泌され、末梢組織の酵素によって20位が水酸化された20-ハイドロキシエクジソンに変換されるとより強い(エクジソンの1/10の濃度で)活性を示すことが知られている。そのため、エクジソンは前駆ホルモンで、20-ハイドロキシエクジソンが脱皮ホルモンの本体であると考える研究者もいる。

エクジソンの構造
エクジソンの構造

 一方、カイコの突然変異としてnm-g(光沢不眠蚕)という系統が知られていた。nm-g遺伝子にはシトクロームP450という酸化(水酸基を導入する)酵素の一種(nm-g酵素)がコードされていて、nm-g酵素はエクジソン生合成酵素のひとつであると考えられていた。nm-g系統は劣性遺伝で、ホモ変異個体は孵化するが、1齢のまま脱皮できない。一方、ヘテロ変異個体は脱皮や変態、生殖が正常であり、通常の餌で飼育することができ、次世代を残すことができる。そのため、ヘテロ個体として変異体系統が維持されていた。


 実験の目的は、エクジソン生合成酵素と考えられるシトクロームP450酵素(nm-g酵素)の基質を明らかにすることである。そのため、ホモ変異個体に蓄積している基質候補のステロイドの構造を明らかにしようと計画した。ヘテロ変異個体同士を掛け合わせた卵を孵化後に通常試料で飼育し、ホモ変異でない個体(メンデル遺伝の法則からホモ個体は1/4と考えられる)が2齢に脱皮したタイミングで、餌をまだ盛んに食べているホモ変異と考えられる個体をエクジソンを含む餌に移して飼育し、脱皮させた(エクジソンレスキューと呼ぶ)。さらに、この操作で2齢へ脱皮した個体について3齢への脱皮時、4齢への脱皮時、さらに5齢(終齢)への脱皮時に同様にエクジソンレスキューを行った。5齢幼虫は脱皮後通常の餌で飼育し、蛹への変態時より少し大きく成長した段階で、前胸腺からステロイド類を抽出して、高速液体クロマトグラフィーで分析した。5齢まで成長させたのは前胸腺に含まれる目的物質(nm-g酵素の基質候補)が多くなると考えたからだ。その結果、通常個体には見られないピーク(物質)が検出された。また、前胸腺だけでなく血液中にもその物質が大量に存在していることが分かった。つまり、この物質がnm-g酵素の基質候補であり、前胸腺には蓄積されず血液中へ分泌されていることが分かった。
 そこで、ホモ変異系統の飼育個体数を増やし、その物質を血液から精製して構造決定することを目指した。(ホモ変異系統を5齢まで脱皮させるために)餌に添加するエクジソンを大量に購入する必要があった。少しでも経費が安くなるように、それまでの1/5程度の価格で購入できるエクジソンをカタログから見つけて購入した。一方、PCR法で遺伝子型を確認しながらnm-gヘテロ変異体の継代飼育を繰り返して、十分な数のホモ変異体が得られるように準備した。

 前回同様にヘテロ変異体を掛け合わせた卵から孵化した幼虫を使って、エクジソンレスキュー実験を行った。ところが、1齢から2齢へのレスキューはできるのだが、2齢から3齢へのレスキューは何度やってもうまくいかなかった。そのことを「餌にエクジソンを添加してカイコの過剰脱皮(10回以上)を誘導すること」に成功していた農生資研(現農環研)の田中さんに話したところ、理由は不明だが、エクジソンだと何度も同じ個体の脱皮を誘導できるが、20-ハイドロキシエクジソンだと一個体について一度しか脱皮を誘導できないと言われた。そこで、「新しく購入したエクジソン」を高速液体クロマトグラフィーで分析した。その結果、エクジソンが全く含まれておらず、未知の物質が10種類くらいと20-ハイドロキシエクジソンが全量の1/10程度含まれていることが分かった。
 つまり、エクジソンとして市販されていた試薬は「エクジソンではなく、含量の1/10が20-ハイドロキシエクジソンで、残りは未知物質の混合物」であったのだ。前段で書いたが「20-ハイドロキシエクジソンはより強い(エクジソンの1/10の濃度で)活性を示すことが知られており」、含量の1/10が20-ハイドロキシエクジソンであることは、活性の強さを人為的に調節したものであり、悪意を感じさせる。なお、エクジソンと20-ハイドロキシエクジソンの脱皮ホルモン活性は同じではなく、違うことも分かった。


 実験を完成させるために「エクジソン」を手に入れようとしたが、その当時、他社のエクジソンも同じような分析結果であった。つまり、このメーカーの安価なエクジソンを他の試薬メーカーも購入して「エクジソン」として販売していたようだ。「エクジソン」であることが確認できたのはSigma社という老舗の試薬メーカーのものだった。ただし、Sigma社のものは、問題があったものの10倍以上の価格だった。また、他のメーカーのものもロットによっては大丈夫なものもあった。


 長くなったのでその後の試薬販売店へのクレームなどの経緯は割愛する。研究者が試薬を信じられなくなると実験ができなくなる。試薬に問題があるかどうかは分析技術を持っていれば調べられるが、そんなことに時間を使っていたら研究が進まない。試薬メーカーは責任をもって品質を管理してもらいたい。


 関連する教訓としてひとつ伝えたいことがある。先輩から引き継いだ試料を実験に使う場合は、必要最低限の(自分が納得できる)分析を自分自身で行い、確認しておくことを勧める。さもないと長い時間かけてやってきた自分の実験が全て無駄になるかもしれない。人任せにしないことが研究者としての第一歩だし、大切なことだと思っている。「論文に書かれていることも、教科書に書かれていることも、一度は疑え」というのが研究者の鉄則(常識)である。


それにしても、試薬を疑うなどそれまで考えたこともなく、怖さを覚えた。

研究試薬
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記事の執筆者と略歴

この記事の執筆者

片岡宏誌のホームページ 片岡 宏誌 農学博士
                                               
1981年 東京大学 農学部 農芸化学科 卒業
1983年東京大学 大学院農学系研究科 農芸化学専攻 修士課程 修了
1986年東京大学 大学院農学系研究科 農芸化学専攻 博士課程 修了(農学博士)
1986年 Sandoz Crop Protection 社 Zoecon Research Institute(アメリカ・カリフォルニア州)ポストドクトラルフェロー
1988年 日本学術振興会 特別研究員(東京大学)
1988年 東京大学 農学部 助手
1994年 東京大学 農学部 助教授
1999年 東京大学 大学院新領域創成科学研究科 教授
2024年 東京大学 定年退職

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