私が大学教員ないし研究者に憧れをもったのは高校の終わり頃だったように思う。理由はよく覚えていないが、研究という言葉に強い魅力を感じた。大学生や大学院生の頃は企業の研究所に勤めることになるだろうと漠然と思っていた。そんな自分が研究者であり大学教員なったのだが、向いていたかというと少々疑問がある。学生の研究指導という面では教員として落第点のような気がする。研究の方向性について細かい指導はせず、学生の自由に研究を行わせた。学生にとって不安で物足りなかったのではないかと思っている。一方、研究者としては及第点をもらえると考えている。やりたいことができるだけの研究費は稼いだし、教科書に載ってもよい研究業績もあげられたはずだ。
また、自分が育てた学生のなかに研究者になった人が何人かいる。その教え子や自分のことを思い浮かべながら、どんな人が研究者に向いているか、徒然なるままに考えてみたい。まず、頭が良すぎる人は研究者に向いていないように思う。頭が良い人は、効率よく実験を進め、要領よく最短で結論を得ようとする。しかし、真実に近づくためにはいろいろな実験(時には反論を封じるためだけの消極的な実験)を総合して判断しないと、誤った結論に進んでしまうことがある。無駄になるかもしれないと思っても、実験して確認することが重要である。つまり、手を動かして努力できることが必要なのである。次に、楽天的で慎重なことも共通しているように思う。また、粘り強くて執着心がないことも、大胆で繊細であることも必要な気がする。自己顕示欲が強く、奥ゆかしいことも重要かもしれない。つまり、いろいろな面で両面性の性格を持っていることが必要だと思う。
恩師である石崎先生は本の中で「困難に満ちたPTTH分子の精製、構造決定の成功は、片岡の研究に対するあく事無い意欲、難関に挑み続ける気質に負うものであったといってよい。一面片岡は、豪放というか奔放というか、何事にせよマイペースで進むといった性格をもち合わせていた。奔放さはしばしば、きまじめさだけでは得られぬ発想の飛躍につながる。彼の気質はそのような期待を抱かせるものであり、そして実際開花したのであった。」と私を評してくれた。また、ある共同研究者は私のことを「ブルドーザーのような人だ」と評していた。私は自分を「豪放かつ繊細」な研究者だと思っているのだが。
例えるなら「自分はマサカリのような存在で、木を倒すことにも、木の皮を剥くことにも、場合によってはひげを剃ることにも使える」という自己評価なのだが。
こんな性格が研究者には向いているのかもしれないと、定年間近になって思っている。なお、この記事の内容はあくまでも私個人の感想である。

「サナギから蛾へ カイコの脳ホルモンを究める」
(名古屋大学出版会)