これまで「研究」については自分自身が実験を行った内容に限っていたが、教員になって指導した内容についても少しずつ紹介していこうと思う。指導者の立場なので、実験事実に多少脚色が入るかもしれない。問題があるようなら、実験をした本人や当時の研究室仲間がコメントしてくれると思う。
研究にはよくあるが、意図していた方向とは異なる「興味深い」結果が得られることがある。これを失敗と捉えるか、発展させようと考えるかで、その研究の価値が大きく変わる。そんな研究のひとつが「前胸腺抑制神経ペプチド」の研究である。
この研究のきっかけは、前胸腺のエクジソン分泌が前胸腺刺激ホルモン(PTTH)のみによって調節されていることに疑問をもち、前胸腺のエクジソン分泌の調節には、他の神経ペプチドも関与しているのではないかと常々考えていたことに始まる。また、エリサン除脳蛹の成虫化を指標にした生物検定法でカイコからインスリンペプチド:ボンビキシンが単離され、タバコスズメガの前胸腺培養法でsmall PTTHとbig PTTHが存在するとの研究成果にも影響を受けた。さらに、農業・食品産業技術総合研究機構(当時:農業生物資源研究所)の田中良明博士、華躍進博士が中心となって行った共同研究で、カイコ脳から「前胸腺抑制ペプチド(PTSP)」が単離されたことにも刺激された。
それまで前胸腺器官培養法を用いてエクジソン分泌の増減を指標に、前胸腺活性化因子や前胸腺抑制因子の検出(生物検定、バイオアッセイ)を行っていた。一方で、前胸腺のエクジソン分泌の調節にはcAMPやカルシウムイオンといったセカンドメッセンジャーが前胸腺細胞内因子として働いていることが分かってきていた。
そこで、エクジソンの分泌量ではなく、前胸腺のセカンドメッセンジャーの量に注目することで新しい因子を発見できるのではないかと考えた。短時間の培養ではエクジソン分泌には影響しないが、生合成酵素遺伝子や生合成・分泌を促進する遺伝子の発現上昇を誘導する因子があるのではないかと考えたのである。そこで、少量(100個)の脳抽出物を高速液体クロマトグラフィー(HPLC)で分離し、各分画を添加した後に短時間培養して前胸腺内cAMP上昇活性を測定した。当然ではあるが、PTTHにも前胸腺内cAMP上昇活性が認められたが、PTTHが含まれていない分画にも前胸腺内cAMP上昇活性が認められた。ここまでは予想通りで、PTTH以外の前胸腺活性化因子を単離できると期待した。
そこで、ペプチドと想定して構造決定が行えるように、カイコ脳を10,000個集め、同じように抽出してHPLCで分離した。0.1個脳相当と1個脳相当の抽出物を加えて活性を測定した。期待に反して、いずれの濃度でもPTTH以外の分画に前胸腺内cAMP上昇活性が認められなかった。そこで、加える抽出物の量を増やして10脳相当の抽出物を加えて活性を測定したところ、いずれの分画も上昇活性は認められず、PTTH溶出位置のすぐ隣の分画に逆に明確な抑制活性が認められた。何度やっても同じ結果だった。そこで、抑制因子を単離してどんな因子(ペプチド)か明らかにすることにした。ただ、これまでの経験から、既に単離・構造決定している前胸腺抑制ペプチド(PTSP)である可能性が高いと考えていた。研究を担当していた山中君(現在、カリフォルニア大学リバーサイド校 准教授)も、活性化因子を期待していただけにちょっとテンションが下がった様子だった。
4段階のHPLCによる精製で単離に成功し、質量分析計(MS)で分析した。このMS解析には、MS販売代理店のABSIEXの依頼分析を利用させてもらった。その結果、N末端がピログルタミン酸でブロックされたミオサプレッシンと呼ばれているペプチドであることが分かった。PTSPではなかったのだ。ペプチドシーケンサーではN末端がブロックされていると配列解析は不可能であり、N末端がブロックされたペプチドでも配列解析が可能で、より微量で解析できるMSで(C末端がアミド構造であることまで含めて)全構造を明らかにできた「山中君の運の強さ」を感じざるをえなかった。
ここまででかなり長くなったので、「ミオサプレッシン構造決定後」と「ミオサプレッシン研究から派生した成果」について続編を書くことにする。