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平等と公平、そして公共性

 最近気になっていることに、平等を主張する学生がやたら増えてきたことだ。自分に不利益なことが起こると必ず平等な対応を要求する。私は「公平である必要はあるが、平等である必要はない」と考えている。課せられた義務は果たさなくても、権利だけは平等だと思っている学生が実に多い。真面目な学生が損をして、主張が強い学生が得をするのが嫌だ。
 35年以上前にアメリカに留学していた時に、多くのアメリカ人の強引な主張に驚き閉口したことが度々あった。ともかく間違っていようが主張が通れば(反論がなければ)、その意見は認められたと考えるのである。研究でも、科学的根拠や理屈が通っていなくても、堂々と自分の意見を述べるし、真実に近づいていなくても平気で、自分の意見が通れば満足していた。ただ、日本の現状はそれともちょっと違うように感じる。
 彼らは、主張したことに責任を持たないのである。権力者(や世間)の威を借りた姿勢や、他人ごとにして「平等であるのが当然で、正しいでしょう」と主張してくるのである。
 受ける教員側も弱く、「無用な騒動にしたくない」、「彼の将来を考えると、考慮してやるべきだ」とか、「規則に書かれていないから認めるしかない」と彼らの主張を認め、「今後このような問題が起きないように、内規にきちんと細かく記載すべきだ」と主張する。でも、内規案を作るような雑務は決して引き受けない。

 公共性を全く気にしない教員が増えてきた。ともかく自分の研究が大切で、自分の研究室のことしか考えない。いわゆる雑務といわれるものはできるだけ引き受けないで、他人に押しつけようとする。そのくせ、学生に公共性がないと批判する。学生に公共性を要求してもそれは無理である。学生は教員の背中を見て育つので、教員に公共性がなければ身につくはずがないのだ。

 いつからこんなことを感じるようになったのか? 昔、年配者に同じようなことを我々も言われていたようにも思うが、どうも違う。我々は問題を感じながら(少し遠慮しながら)自己主張していたように思うのだ。私が考えるに、小学校で「道徳授業」を受けたかどうか、その教育を受けた親を持っているかどうかで大きく違っているように思う。幼少期に道徳教育を受けておくことは大切な気がする。私と同じように、例え道徳教育に反発を感じてもだ。「私が、私が、と主張することも大切であるが、時には周りの人の意見を大事にしたり、人を敬うことも重要だ」と考えて欲しいのだが。
 アメリカの民主主義や個人主義を取り入れて、教育システムや考え方を大きく変えてきたが、良いところより問題があるところが導入されてしまったような気がする。有り難いことに、私は間もなく引退する。
 「どんな生き方をしても良いが、最後は自分の責任で生きていくように」と言い残しておきたい。

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記事の執筆者と略歴

この記事の執筆者

片岡宏誌のホームページ 片岡 宏誌 農学博士
                                               
1981年 東京大学 農学部 農芸化学科 卒業
1983年東京大学 大学院農学系研究科 農芸化学専攻 修士課程 修了
1986年東京大学 大学院農学系研究科 農芸化学専攻 博士課程 修了(農学博士)
1986年 Sandoz Crop Protection 社 Zoecon Research Institute(アメリカ・カリフォルニア州)ポストドクトラルフェロー
1988年 日本学術振興会 特別研究員(東京大学)
1988年 東京大学 農学部 助手
1994年 東京大学 農学部 助教授
1999年 東京大学 大学院新領域創成科学研究科 教授
2024年 東京大学 定年退職
2024年 東京大学 名誉教授

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