Zoecon社への留学は当初2年間と考えていた。うまく研究が進まなかった場合は帰国して、20代のうちに就職しようと思っていたからである。幸い、一年と少しで課せられていた2つのペプチドホルモン、羽化ホルモン(EH)と利尿ホルモン(DH)の構造を明らかにすることができた。また、途中で別の研究員に引き継いだクモ毒の構造解析も順調に進んでいた。ボスのSchooleyから「2年以上必要と考えていた仕事を片付けたので、今後はやりたいことをやって良い。何か希望があるか?」と尋ねられ、何をやるかしばし考えた。
当時昆虫ウィルス研究の第一人者であった故前田進さんがZoeconに留学していて、私が構造を決めたペプチドホルモンをウィルスに組み込んで、殺虫活性を高めるという研究を進めていた(Zoeconが計画していた新規殺虫法である)。また、昆虫ウィルスの全ゲノム配列を明らかにしようとしていた。今後の自分の研究を考えると、前田さんに弟子入りして遺伝子操作の技術を身につけておくことは大切だと考えた。
一方、セットアップしたペプチドホルモンの精製法をうまく生かして、別のペプチドホルモンを精製することにも興味があった。こちらの方が成果を得られやすいという打算もあった。日本に残してきた前胸腺刺激ホルモン(PTTH)研究にも未練があったことから、タバコスズメガPTTHを精製することを考え、生物検定法(幼虫アッセイ)を研究員と検討することから始めた。日本でもカイコ除脳幼虫のPTTHアッセイを経験していたので、知識と技術は持っていたのだが、うまくいかなかった。結局、自分たちの頭部抽出液中にはPTTH活性物質が含まれていないということで断念したが、生物検定に用いる幼虫をうまく飼育できなかったことが原因だと私は思っている。殺虫剤開発のためだと飼育が雑で、繊細な生理学的な実験のための幼虫をうまく育てる(選別する)ことができなかったのである。
もうひとつ興味をもったのは幼若ホルモンの生合成を促進するアラトトロピン(AT)である。Zoecon社は幼若ホルモンの類縁化合物(ZR515)を殺虫剤として販売していて、幼若ホルモン関連の研究レベルが非常に高かった。ボスのSchooleyも幼若ホルモンの生合成経路を明らかにした業績で著名であった。当時Zoeconでは、タバコスズメガのアラタ体器官培養系で幼若ホルモンの生合成を調節するATとアラトスタチン(allatostatin、AS)をゴキブリ頭部から精製するプロジェクトが進行中であった。「なぜゴキブリを材料にして、タバコスズメガからは精製しないのか?」と尋ねたところ、「タバコスズメガ脳抽出物にはAT活性もAS活性も認められなかったから」との返事が返ってきた。そこで、「私が準備するサンプルを一度試して欲しい」と頼んだ。その結果は、AT活性が明確に認められたのである。Schooleyをはじめ、AT&ASプロジェクト関係者は一気に興奮・驚喜し、早速タバコスズメガAT精製プロジェクトを進めることになった。いくつかの精製条件を検討した結果、私も単離できると自信を持った。
数万頭分のタバコスズメガ頭部抽出液(EHとDH精製のサイドフラクション)を持っていたことと、生物検定を担当してくれるテクニシャン(研究員)が協力的なこともあって、たった一週間でATを単離することができた。配列分析の結果も明瞭で、13残基の全アミノ酸配列が一気に決まった。こんなに順調な研究はこれまでに経験が無い。「神様がご褒美をくれたのかもしれない」と思った。この配列情報を残して、夏休みで日本から遊びに来た弟と研究所の日本人を誘って、私はグランドキャニオン観光に一週間出かけた。一週間後に休暇から帰るとC末端がアミド型と遊離型の2種類の合成ペプチドが出来上がっていた。早速HPLCで精製して生物検定をしてもらったところ、アミド型ペプチドにのみAT活性が認められた。ただ、HPLCの溶出位置が天然物に比べてかなり遅いことが気になっていた。そこで、天然物と合成ペプチドを混ぜてHPLCで分析すると2つのピークが認められ、両者は明確に違う物質であることを示していた。何が起きたのかと、呆然としながら記録を見返していて、配列分析で3残基目のアミノ酸の「リジン」を「ロイシン」と読み間違えていることに気づいた。早速、研究所のペプチド合成屋さんに丁寧に謝罪し、正しい配列のペプチドを合成してもらった。今度は様々なHPLC条件下で、アミド型合成ペプチドと天然物の溶出時間が完全に一致した。また、N末端側が一部短いアミド型ペプチドもAT活性を示すことも分かった(参考の Fig. 2)。配列分析で3残基目のアミノ酸を間違い、そのペプチドにAT活性が認められていなかったら、このような短縮ペプチドを合成して活性を測定しようとは思わなかっただろう。将に、「転んでもただでは起きない」精神である。
これらの結果は、後日Scienceに掲載されたが、単離にはわずか一週間しかかかっていない極めてタイパ(コスパ)の良い研究であった。合成ペプチドのことも含めても一ヶ月はかかっていない。やはり慣れない研究・生活環境で頑張っていたので「神様がご褒美をくれた」のだろう。