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ボンビキシン(bombyxin)(1)

 無脊椎動物から初めて発見されたインスリンとして、ボンビキシンはこの業界では有名なのだが、「ボンビキシンの発見」については意外と知られていないことから、その研究裏話を2話に分けて紹介したい。ショウジョウバエのILP(insulin like peptide)が有名で、昆虫インスリンはショウジョウバエで発見されたと思っている人も多いが、間違いである。ショウジョウバエILP研究者が論文発表の際に、カイコボンビキシン研究を一切引用しなかったためにそのような誤解が生じたと考えている。なお、この投稿記事では、私の個人的な思いと解釈がかなり入っていることを最初に断っておく。

 ボンビキシンは、当初前胸腺刺激ホルモン(PTTH)として単離・構造決定された(図1)。私がこの分野の研究に加わった1980年より前にも、PTTHを単離・構造決定しようという試みは数多くなされてきた。その中心人物のお一人が、恩師石崎宏矩先生である。先生が書かれた文章(このホームページの参考資料:恩師(石崎宏矩先生)「かつて絵描きだった」)でも紹介している。PTTHの生物検定法としてエリサンという野蚕の一種の除脳蛹の成虫化(除脳蛹アッセイ)を指標に、カイコガ頭部から単離されたのがボンビキシンである。

 アメリカで行った羽化ホルモンの単離ではニセアメリカタバコガ(Heliothis virescens)の羽化行動を、利尿ホルモンの単離ではモンシロチョウ(Pieris rapae)の利尿活性を指標に、タバコスズメガ頭部からそれぞれのホルモンの精製を進めた。抽出材料とは別の昆虫を生物検定に用いる理由は、その昆虫を用いた検定系が比較的容易で安定しており、結果が明確で再現性が高いことが挙げられる。
 エリサンは蛹化後1日以内に除脳すれば、確実に除脳休眠蛹(PTTHが分泌されず、成虫化が止まり休眠状態になった蛹)になるし、その除脳休眠蛹にカイコの脳を移植したり、脳抽出液を注射すれば成虫化が開始する。また、エリサンの脳や脳抽出物でも当然同じように成虫化が観察される。カイコのPTTHは、種による特異性がなく、同じ物質がカイコにもエリサンにもPTTHとして作用すると考えていたのである。このエリサン除脳蛹を用いてPTTH(正確にはボンビキシン)が「タンパク性(ペプチド性)の物質」であることが世界で最初に明らかにされた。

 私がこのボンビキシン研究に加わったのは、エリサン除脳蛹アッセイでボンビキシンが単離され、構造が明らかになる最終局面で、ボンビキシンがカイコの除脳蛹に対してPTTH活性がないことが明らかになった、まさにその時だった。当時研究室では、エリサン除脳蛹に対してPTTH活性を示す分子量4,000の4K-PTTH(ボンビキシン)とカイコ除脳蛹に対してPTTH活性を示す分子量22,000の22K-PTTHの2種類のPTTHが存在していると解釈していた(解釈しようとしていた)(図2)。単純に考えれば、カイコから精製したのだからカイコにPTTH活性を示す物質が真のPTTHで、エリサンに対してPTTH活性を示すボンビキシンはPTTHではないと考える方が自然なのだが、しばらくはそうは説明しなかった。私は22K-PTTHの精製を担当したのだが、この問題の矢面に立たされた時は本当に困った。「自分が真のカイコPTTHの精製を行っているのです」と説明したいが、これまでの4K-PTTH(ボンビキシン)の精製に携わってきた人達の苦労を考えると簡単にそうは説明できない。修士論文発表会や学会で、歯切れの悪い回答をしたことを今でもよく覚えている。修士課程の学生に研究の歴史を背負わせるには、あまりに荷が重すぎた。

図1 ボンビキシンとインスリンのアミノ酸配列.
図1 ボンビキシンとインスリンのアミノ酸配列.
 図2 ボンビキシン-PTTHゲル濾過(脳抽出物)
図2 ボンビキシン-PTTHゲル濾過(脳抽出物)
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記事の執筆者と略歴

この記事の執筆者

片岡宏誌のホームページ 片岡 宏誌 農学博士
                                               
1981年 東京大学 農学部 農芸化学科 卒業
1983年東京大学 大学院農学系研究科 農芸化学専攻 修士課程 修了
1986年東京大学 大学院農学系研究科 農芸化学専攻 博士課程 修了(農学博士)
1986年 Sandoz Crop Protection 社 Zoecon Research Institute(アメリカ・カリフォルニア州)ポストドクトラルフェロー
1988年 日本学術振興会 特別研究員(東京大学)
1988年 東京大学 農学部 助手
1994年 東京大学 農学部 助教授
1999年 東京大学 大学院新領域創成科学研究科 教授
2024年 東京大学 定年退職
2024年 東京大学 名誉教授

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