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ひとりの東大教員の思い出と経験「学位論文の公開」

 しばらく記事書きを自粛すると書いたが、この記事は今の時期に書いておいた方が良いと思い、筆をとることにした。東京大学では博士ならびに修士論文のデジタルファイルを図書館が集め、「リポジトリ」として電子公開することにしている。にもかかわらず多くの学位論文が公開されていない。それは、学位論文の内容を学術誌へ投稿するには、その内容を事前に公開してはいけないと考えていることがひとつの理由だ。私も現役時代、学生に公開をできるだけ遅らせ、かつ公開内容を最小限にするように学生を指導していた。
 今から20年前に、ある学生の修士論文全文のPDFファイルが、卒業後間もなく「リポジトリ」でネット上に公開されていることを偶然発見して驚いたことがあった。投稿予定の内容がたくさん含まれていたので慌てた。程なく先輩にあたる博士課程の学生が自身の実験結果を加えて学術誌用投稿論文に仕上げてくれ、無事論文発表できた。つまり、学位論文が修了後直ぐに公表されても学術誌投稿には支障はなかった。
 博士論文は1年以内(?)に投稿論文として公開することが条件になっているが、公表しなくても「学位取消」の罰則はない。そのため、博士論文(修士論文も)は研究室に冊子体で保管されて、後輩の学生が参考にするくらいだ。東京大学の博士学位論文は製本されて所属部局の図書館と国会図書館に蔵書されるが、公開希望されることはほぼなく、忘れ去られることになる。また、審査委員から修正するように指摘を受けても訂正されないまま研究室に残すこともある。
 一方、学生の学位論文に対する自尊心(プライド)が低くなっていて、昔は「優」をもらえるように最後まで力を振り絞って仕上げていたが、最近は「可」で十分、「不可」にならない最低限の努力で書き上げた学位論文が目立つようになってきた。〆切直前に指導教員に提出するので、添削されることもなく審査委員へ配布される論文が増えたような気がする。図表の番号が誤っていたり、一部が欠落していたりすることは日常茶飯事だ。フォントやインデントが不揃いのものも見かけるし、明らかに文調が異なる文章が複数混ざっているものを時々見かけるようになった。先輩の論文(デジタルファイル)をコピペしたのではないかと私は思っている。現役最後に読んだ修士論文は、文章としては正しいが、何を言いたいのか理解できない文章が長々と続いていた。もしかしたらAIに書かせたのではないかと思った。ともかく、人に読んで(審査して)もらおうという気持ちが皆無で、できるだけ手を抜きたいとの思いをありありと感じさせるものが増えた。約20年の学生生活最後の集大成である学位論文をここまでおろそかにする気持ちを私は理解できない。研究倫理に反していることなど気にしないで、盗用文章や捏造データが平気で掲載されている場合もあるのではないかと思う。


 私は、図書館の「リポジトリ」システムで、学位審査合格判定と同時に公開することを義務づけてはどうかと思う。そうすることで、論文中の実験方法や結果を他の研究者(後輩も)がいつでも(いつまでも)参考にできるし、大量の冊子体の学位論文を研究室で長期間保存する必要もなくなる。また、名前が記載された学位論文がWeb上に公表されると思うと、学生もきちんと仕上げた学位論文を残すのではないかと思う。当該学生と指導教員は学位論文の内容に責任をもつべきで、Web公開された学位論文に対するいかなるクレーム(盗用の疑い?など)にも正々堂々と反論すべきである。それができないなら、学位が剥奪されても当然だと思う。研究が多様化、再分化、高度化され、専攻の限られた教員による審査だけでは不十分で、外部の研究者にも学位論文の内容を確認してもらうことが重要な気がする。
 退職して学位論文作成に責任がなくなったのでこんな意見を出せるのかもしれないが、学位論文の公開について、もう一度検討する必要があるのではないかとふと思い出した。

学位論文の電子公開のための許諾書(東京大学)
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記事の執筆者と略歴

この記事の執筆者

片岡宏誌のホームページ 片岡 宏誌                 東京大学名誉教授(農学博士)                
                                               
1981年 東京大学 農学部 農芸化学科 卒業
1983年東京大学 大学院農学系研究科 農芸化学専攻 修士課程 修了
1986年東京大学 大学院農学系研究科 農芸化学専攻 博士課程 修了(農学博士)
1986年 Sandoz Crop Protection 社 Zoecon Research Institute(アメリカ・カリフォルニア州)ポストドクトラルフェロー
1988年 日本学術振興会 特別研究員(東京大学)
1988年 東京大学 農学部 助手
1994年 東京大学 農学部 助教授
1999年 東京大学 大学院新領域創成科学研究科 教授
2024年 東京大学 定年退職
2024年 東京大学 名誉教授

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