このタイトルでもう少し書いておきたいことを思い出したので、続編を書くことにした。大学内のことだが、一般にも共通する部分があるのではないかと思う。「ウィキペディア」の問題についても関係するような気がする。年配の教育者のひとりとして、偉そうに書いてみたい。
ある委員会やワーキンググループの代表者(委員長や座長)になった時、自分の考えをその組織の意見として述べる若手教授がいる。その組織の全ての権限を持った(自分の思いのままになる)と勘違いしているようだ。私も若い頃はその傾向があったように思う。そのため、その組織のメンバーの意見や同意を得ないで、上位の会議(全体会議)へいきなり自分の意見を提案して承認を得ようとする。委員会やワーキンググループで十分な議論や検討が行われていないので、細かい問題点がいくつも指摘されて全体会議が紛糾することになる。何度も同じことが繰り返されるので、私はある時「やり方が雑だ」と非難して改善を求めたことがある。ところが、一向に改善されない。しばらく経って、きちんと細かく説明しないと「やり方が雑だ」と概念的な改善を求めても、経験がない若手教授には理解できないことに気づいた。選ばれたメンバーによる委員会やワーキンググループを作るのは、少人数で時間をかけて綿密に検討するためなのだ。その結論をまとめて委員長が代表者として上位会議へ提案して承認を得る必要がある。同じ内容を順序立てて複数の会議を通すのは面倒なのかもしれないが、その方が全体の構成員にとっては効率が良いからこれまで行われているのだ。Zoomやslackも便利だが、対面でないものだけに頼ることも問題を起こす遠因になっているような気がする。「代表者は決してその組織の独裁者ではない」ことを頭に入れておいて欲しい。
「ウィキペディア」の問題もきちんと指摘しないと、何を非難されているのか分からないのかもしれないと思った。もう一度記事を見直すのは嫌なので、(正確ではないかもしれないが)覚えている範囲でいくつか指摘しておきたい。
- 私はグレタ・トゥーンベリ女史のような「環境活動家」ではないし、目指してもいない。敢えて言うなら「環境保護活動家」かもしれない。
- 生年月日は、本人認証に使われる重要な個人情報であり、他人が勝手に公表するものではない。
- 「影響を受けた人」は本人が決めるもので他人が勝手に推測してはいけない。また、「影響を与えた人」も、対象になった人が掲載を判断するもので、他人が勝手に決めてはいけない。掲載や削除を判断できるのは名前を挙げられた本人だけだ。唯一名前を挙げて良いのは、大学や大学院時代の指導教員名くらいだろう。それとて公的書類できちんと確認する必要がある。
- 「ウィキペディア」の読み手は一般人であって、研究室や専攻の関係者、友人を相手にしたものではないことを頭に入れる必要がある。執筆者自身の自己主張のために延々と書くのは勘弁して欲しい。一般人にも理解できる内容を簡潔に書くべきである。ゴシップネタなど興味を引くだけの内容は書くべきではない。それに対する非難は項目で取り上げられた当事者に向けられることになる。どうしても書きたいなら執筆者が実名を明かしたうえで公表すべきだと考える。執筆者の人格が疑われることになるだろうが。
- ホームページのブログ、XやYouTubeなどのネット情報は鵜呑みにしてはいけない。脚色があることを理解して執筆することが大切である。推測や憶測に基づくことを事実のように書くことは慎むべきである。判断に迷ったら必ず本人に確認すべきである。
- 「ウィキペディア」は、少なくとも本人が記載されたくないと表明した内容は速やかに削除するべきである。それに対して記載するべきであるとの主張が複数の人からあれば、その是非を編集部として検討して判断すれば良いと思う。今は取り上げられた当事者の権利があまりにも軽んじられている。こんなことをやっていると「ウィキペディア」の権威はなくなり、世の中から相手にされなくなるように思う。
ネット記事やマスコミに対しても、いろいろと言いたいことや考えていることがあるので、また別の機会にそれらを紹介したい。