今日は11月27日で、あとひと月あまりで2024年も終わる。題名だけや途中まで書いた記事がいくつもある。目標の100タイトルを目指して少しでも書き上げ、今年中にできるだけアップしたいと思っている。今日は「著作財産とその金銭的価値」というタイトルで、書きかけている記事を完成させたい。
数日前に「ホームページのブログ記事は財産だ」と、ホームページの管理者である二男に話したら「財産と言えるような価値はない」と言われた。確かに金銭的価値はないかもしれないが、私以外には決して書くことができない内容だし、書き残しておく価値があると自分では思っている。今は影も形もない孫やひ孫の世代で興味をもつ人がいるかもしれない。
「金銭的価値が認められていない著作」の最たるものは「科学論文」のような気がする。誰もが重要だと認める論文であっても原稿料は貰えない。論文の内容は業績として評価され、研究費獲得や人事選考で重要視されるから著作者にとっても論文発表は価値がある。科学論文が公表されると著作権は出版社に移り、著作者といえども論文に載せた図表は勝手に使うことが出来なくなる。一方で、出版社は論文(正確には科学雑誌)を大学などへ電子ジャーナル(昔は雑誌)として販売している。最近はオープンジャーナルといって、ネット経由でPDFファイルを無料でダウンロードできる科学雑誌が増えてきた。出版には著作者が論文当たり20万円以上の出版料を負担する必要があり、これも出版社の収入になる。オープンジャーナルはWeb出版なのでページ数に制限がなく、掲載数を増やせば増やすほど出版社の収益になる。他方で、投稿論文数が増えると関連分野の同僚科学者による論文審査の負担が増大する(1~2週間で審査を完了するようにと出版社の編集者から指示され、審査員によっては同時に何報も審査論文を抱える)ことになる。十分な審査が行われないで論文が公表され、科学論文の質が低下していると感じる。審査員は、論文に大きな問題がなく、それなりの研究内容であれば、気になる点を少しだけコメントして掲載可と審査結果を返事することが多くなっている気がする。さもないと、投稿者が問題点を認めて掲載を諦めるか、掲載可になるまで何度も修正を加えるように著者とやり取りすることになる。また、どんなに時間を使って丁寧に審査をしても出版社から謝礼は出ない(が、同じ雑誌への投稿料が10%くらい割引になることがある。出版社にとっては次の投稿論文を増やす宣伝にもなり、うまいやり方だと思う)。そんな状況なので、論文発表されたからといって正しい内容ばかりではなく、マスコミの扇動的なニュースを鵜呑みにしないことを勧める。問題があるかもしれない論文やその報道が世の中に溢れることは科学の発展や世の中のためにならないと私は日頃から思っている。
学術書(著書)の執筆では印税という金銭的報酬がある。また、学会誌などに原稿を書くと(昔は)謝礼をもらえた。(作家でもないのに)文章を書くことでお金がもらえることを知った時は驚いた。一方で、教務関係の規則などをいくら頑張って書いても報酬はなかった。「これだけ時間をかけたのだから、依頼原稿だったらいくらになるだろう」と考えたこともあった。ところで、特別な能力や多大なエネルギーを使って、オリジナリティーが高いものに仕上げた著作なのに、報酬をほぼ受けられないものに「入試問題」がある。傑作と言われる問題も作成者に無許可で問題集に使われ、(場合によっては酷評されたり、勝手に脚色されて)販売されている。入試問題の著作権はどう考えられているのだろう?
私は、子供の頃から本を1時間ほど読むと偏頭痛が起きるので読書が苦手だが、自分の考えや思いを書くことは昔から好きだった。英語担当だった高校の担任から、私が書いた文章を読んで「新聞記者になったらどうか」と言われたことがある。しかし、「物書き」を職業にしなくて良かったと思っている。文章は時間に追われず、徒然なるままに書くのが楽しい。